相馬野馬追について
歴史
野馬追の始まり
『野馬追』の始まりは、平安時代中期、平将門公(相馬小次郎)が下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県松戸・流山付近)の牧で野馬を捕らえて、御神馬として神前に奉納したことが由来とされています。平将門公の子孫である陸奥相馬氏の『相家故事秘要集』によると、「将門、関八州を領してより、下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県北西部)に馬を放ち、年々春夏秋二度も三度も、八カ国の兵を集め、甲冑を帯し、大群を学び、野馬を敵となして、軍法備えの次第、駆引の自由、馬上の達者、機変自在の動きを試む」と記されています。
940年に将門公は亡くなり、数代の間は野馬追が行われていなかったとされています。平安時代後期、相馬家初代当主・相馬師常公(千葉常胤次男)が養子となり家督を継いでから、晴れて旧暦五月中の申に野馬追が再開されたと言われています。(諸説あり)。
相馬家と野馬追
1323年、第6代当主・相馬重胤公が、陸奥国行方郡太田村(現在の福島県南相馬市原町区中太田)に下向しました。この土地は、奥州合戦(1189年)の褒美として千葉常胤が源頼朝より与えられた土地で、相馬家に相続されていました。現在の相馬太田神社がある場所に居(別所の館)を構えますが、数年で小高城(現在の相馬小高神社)に移り住みました。また、野馬追の故事に倣い、太田村近くの原野に馬を放ち、以降断続的に馬を放ち続けてとされています。このころの野馬追は資料が乏しく詳細は不明ですが、時は下って1600年、当時居城としていた牛越城下(南相馬市原町区)で野馬懸(のまかけ)をしているときに、関ヶ原合戦の報告を受けたとされ、下向後も野馬追を続けてきたと推察されます。
受け継がれて祭礼に
江戸時代になると、居城を中村城(現在の相馬中村神社)に移し、以降明治時代になるまで相馬氏の居城となりました。この頃から、現在行われている相馬野馬追の面影が見えてきます。第19代当主・相馬忠胤公は、下向してきて以来断続的に馬を放ってきた原野に、牧を整備し、そこで野馬追を行うことにしました。現在の雲雀ヶ原(ひばりがはら)祭場地もその一部です。
明治時代になると武家社会に終焉を迎え、野馬追原に放牧されていた馬が捕獲されるなど相馬家の年中行事であった野馬追もできなくなりましたが、相馬家の氏神である妙見を祀る相馬三社(相馬太田・小高・中村神社)の祭礼として、幾多の困難を乗り越えながら今日まで受け継がれています。