一千有余の歴史を経て、今なおいきづく伝統の祭り

野馬追の起源

 相馬野馬追の起こりについては、相馬氏の始祖、平将門に始まると伝え『相家故事秘要集』に、「将門、関八州を領してより、下総国葛飾郡小金ヶ原(しもうさのくにかつしかぐんこがねがはら)に馬を放ち、年々春夏秋二度も三度も、八カ国の兵を集め、甲冑を帯し、大群を学び、野馬を敵となして、軍法備え(そなえ)の次第、駆引(かけひき)の自由、馬上の達者、機変自在(きへんじざい)の動きを試む」と見える。 

 『奥相秘鑑』によれば、天慶3年(940)将門没後、長男は早世し、三男以下は戦死し、次男将国(まさくに)一人が死を免れて民家にかくれ、その子文国は旧臣浮島太夫木幡右近国豊に隠まわれ、常陸国信田(ひたちのくにしだ)郡浮島に住み、信田小太郎と称した。文国(ふみくに)の子頼望(よりもち)にいたり推されて信田の郡主となり、漸く地方に重きをなすようになった、とある。 

 将門没後、数代の間は野馬追も出来なかったと思われるが、相馬氏の一族の岡田氏が下総国葛飾郡に住んで、わずかに野馬追を続けていたとも伝わる。 

 頼望より六代目の重国(しげくに)の代になって千葉介常兼(つねかね)(千葉城に居住)より所領を分け与えられ、下総国相馬郡守谷に移り、信田の名を改め、相馬を名のり相馬家を再興した。 

 重国から胤国(たねくに)、師国(もろくに)と続いたが、師国に子がなかったので、養子として迎えたのが、本家筋の千葉常胤の次子、師常(もろつね)であり、ここに師常は将門の正統を継いだのである。そして、師常の頃から、晴れて先例のように小金ヶ原で毎年五月中(なか)の申(さる)の日に野馬追を行うようになったとするのが一般の伝承である。 

 小金ヶ原で行われたという将門のころの野馬追の様子は知る由(よし)もないが、平素多くの野馬を放牧し、この馬群を多くの将兵が騎馬で追い出し、一定の場所に追い込み、野馬を生捕る(いけどる)ことによって敵兵を捕虜にした形をとった、いわゆる野馬追の行事を行ったとされる。 

 今に残る小金ヶ原は、ほんの名ばかりで、守谷(茨城県守谷市)の西南方約20キロメートルの辺り(あたり)にあるという。

 将門の正統を継いだ師常(もろつね)は、鎌倉四天王の一人として武名をはせ、陸奥国行方郡を拝領したので、彼を陸奥相馬氏の祖としているのである。

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