一千有余の歴史を経て、今なおいきづく伝統の祭り

相馬の武士道

 一千年有余の歴史を誇る相馬野馬追を語るには、その背景をなす相馬の武士道に触れなければならない。

 相馬中村藩主である相馬氏の起こりは非常に古く、『相馬系図』によれば相馬小次郎平将門を祖とし、下総(南関東)を本拠としていた。将門から12代目に当る相馬師常が、同族の千葉氏より出て相馬氏を継ぎ、陸奥相馬氏の初代当主となった。師常から5代目に当たる相馬重胤が、師常が平泉討伐の恩賞として拝領した陸奥国行方郡に下向した。

 相馬の武士道の源は、すでに戦国時代の顕胤(あきたね)などに現れている。伝記に、天資英邁、至行端正、特に信義に厚く、妻の父に当る伊達稙宗(たねむね)のために、稙宗の子晴宗と度々戦を交えたのも信義のためであった。ある時阿武隈川を挟んで対戦し、多くの戦死者を出した時、敵味方塚をつくって一緒に葬ったことは、敵方に感動を与え、語り草になっている。

 相馬氏では城下給人のほかに、全領に在郷給人・郷士が住んでおり、平時は農耕に従事して自活し、有事の際には武器をとり城へ駆け付けた。彼らも侍という観念が強く、常に武道と学問を修め礼儀を重んずる気風があった。いつ何時攻められるかわからないので、常に武器を傍らに置いて働き、日頃より学問から礼儀作法にいたるまで、きめ細かな精神的しつけを怠らず、緊張感を持続し、武士道精神をさかんにすることに全力を注いだのである。

 江戸時代になると、相馬氏三郡(宇多・行方・標葉郡)の領地は禄高6万石の相馬中村藩と呼ばれるようになった。隣には、10倍に余る大藩の仙台藩(伊達氏)があり、有事のことを考えるとけっして安閑としてはいられなかった。そのため、武具の充実と武術の鍛錬を怠ることが出来ない相馬氏にとって、野馬追行事は幕府の厳しい監視の目を逃れて武術の訓練を図る場となったのである。

 江戸時代後期になって相馬中村藩は、天明・天保の大飢饉により大打撃を受けたが、藩を救ってくれたのは、二宮尊徳の「與国安民法」(相馬では御仕法と呼んでいる)であった。その基礎は、至誠・推譲・分度・勤労という四つの徳目におき、徳を持って徳に報いるという報徳精神である。当時の当主である相馬充胤は、二宮尊徳の弟子である富田高慶らを登用し御仕法の元、藩の再建を図った。

 このように、古くは武士道精神、新しくは報徳精神という二大指導精神が相馬を支えてきたもので「相馬は東国の君子国」と言われる所以である。

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